女性の地位向上や政治浄化に尽くした一宮市名誉市民の市川房枝。明治26年(1893年)に一宮市明地で生まれました。決して裕福ではない農家の三女(三男四女の七人兄弟)として過ごしたのです。東京やアメリカでの活躍が多い生涯のために、一宮市内では、市川房枝の功績があまり知られていないのかもしれません。けれど、日本の女性が参政権を獲得した歴史に、先頭に立っていたことは間違いありません。明治・大正・昭和の時代を駆け抜けて来た市川房枝の実像に迫ります。
母親の嘆きが、婦選運動のきっかけ
市川房枝が、女性の地位向上に尽くしたきっかけは、幼少の頃に遡ります。父親は子ども達に対して教育熱心であったけれど、母親(妻)に対しては暴力を振るっていたそうです。母親はじっと我慢して、女に生まれたのが因果だと嘆いていました。そんな母親の面影が活動の出発点となりました。
勉強嫌いで学校をサボることが多かったようです。小学校卒業後、アメリカにいる兄を頼って単身渡米を試みますが、未成年だったため許可が下りません。その後は、家業の農業を手伝います。
恩師との出会いがあってからは勉強に身が入り、上京して女子学院に入学します。しかし、すぐに帰郷となり、小学校の代用教員となります。そして、またすぐに岡崎市の愛知県第二師範学校女子部へ進学。3年後、名古屋市に新設された愛知県女子師範学校に移ります。24歳で名古屋新聞(現中日新聞)の記者になるまで、闘病生活を乗り切りながらも教員として勉学に熱が入っていたと言えそうです。良妻賢母教育への反発、教員としての男女差別に不満を募らせていたのもこの時期です。
生涯独身を通して、婦選活動に専念します
政治、社会、文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動が展開されていた大正デモクラシーの時代(1910年代から1920年代)。市川房枝は、結婚するべきか、社会や同性のために働きながら勉強するべきか悩んでいました。いくつかの縁談もありましたが、この時の選択で生涯独身となります。子供のころから考えていた婦人の地位の向上のために、努力することを決心したのです。
上京した市川房枝は、平塚らいてう(「元始、女性は太陽であった」という言葉を残した思想家)と出会い、渡米した際はアリス・ポール(全米婦人党のリーダー)と出会います。運命的ともいえるそれらの出会いが、市川房枝の運動に大きな影響を与えます。
国際労働機関に就職すると、炭坑や紡績工場で働く婦人の惨状を直視。働く女性の問題を解決するために、女性の政治参加が必要だと説いて、婦選運動に専念していきます。
婦選なくして真の普選なし、市川房枝の魂の叫び
市川房枝は、創立された「婦人獲得同盟」に参加して、婦選三案と言われた各種の改正案を議員に働きかけます。このころのチラシに打たれた、婦選なくして真の普選なし、という言葉は資料館などで見ることができます。
時代は満州事変が起きて戦争が泥沼化していき、婦選活動に試練が続きました。けれど、市川房枝は婦人に関する研究会を次々に発足して盛り立てていきます。
1945年の終戦後、焦土を奔走しながらも婦選を要求する活動を実施。時代の風潮が変わるのも後押しとなって、1946年に初めて女性参政権行使による投票が実現したのです。この時の投票率は、女性が66.97%、男性が78.53%です。市川房枝の活動が実を結び、婦人の、女性の政治参加が始まったのです。女性の参政権が実現していたアメリカの関与があったことも、要因としてあげられそうです。
参議院議員として、25年間も活躍
第1回参議院議員選挙には、理不尽な理由で立候補できませんでしたが、第3回の参院選にも立候補を強く勧められて初当選。参議院議員として売春防止法など女性の人権問題、女性の地位向上、公職選挙法の改正や政治献金の禁止などの政治の浄化のために尽力活動されていきます。市川房枝は参議院議員選挙に5回当選。25年も議員活動を勤めて、後に参議院本会議で表彰を受けています。5回目の当選の際は、全国区から立候補して278万票あまりを得票したのです。培ってきた活動の成果と、有権者の多大なる期待が伺えます。
晩年には、数多くの出版、自伝映画の撮影も行ないました。市川房枝の生涯にわたる婦選活動は歴史の教訓となり、21世紀の日本に必要なことは、若者の政治参加かもしれないと思わせます。市川房枝は、87歳でその生涯を閉じました。
参議院議員選挙の当選回数
【1回目】第3回参議院議員選挙 東京地方区で2位当選
【2回目】第5回参議院議員選挙 東京地方区で2位当選
【3回目】第7回参議院議員選挙 東京地方区で4位当選
【4回目】第10回参議院議員選挙 全国区で2位当選
【5回目】第12回参議院議員選挙 全国区で1位当選
(text in 2013.7.21)
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