近代日本画家・川合玉堂

近代日本画の巨匠・川合玉堂(かわいぎょくどう、1873年から1957年)は、葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)で産声を上げました。本名は川合芳三郎(よしさぶろう)。生涯に渡り筆をとって絵を描き続けた画家です。玉堂の生誕地に建てられている「玉堂記念木曽川図書館」の玉堂記念展示室(3階)で、数点が常時展示されています(東京都にある玉堂美術館も興味深いです)。日本画の潮流が感じられて、自然と小さな命を愛した作品は、日本の原風景の大切さを訴えています。

著名人の門下生となり、絵画を学びます

幼児期を生誕地で過ごしてから、親戚を頼りに岐阜県米屋町(現在の岐阜市)に転居します。小学生の頃から図画を得意とした玉堂は、新天地で盛んに絵を描き、その絵が書家の青木泉橋に認められます。

泉橋の紹介もあり、京都の画家・望月玉泉(もちづきぎょくせん)の門下生となりました。岐阜に住んでいた玉堂は、年に数回だけ京都へ出向いて稽古に励んでいたのです。そして、第三回内国勧業博覧会で「春渓群猿図(しゅんけいぐんえんず)」「秋渓群鹿図(しゅんけいぐんかず)」が入選。玉堂が17歳の時です(出品にあたり、師匠の望月玉泉の「玉」、祖父の竹堂の「堂」をもらって「玉堂」の号をもらいました)。本格的に絵画を学ぶため、その当時で最も高名な幸野楳嶺(こうのばいれい)の大成義会に入ります。

多くの先輩や同輩とともに画才を高めていましたが、玉堂が京都に赴いている際、岐阜県と愛知県一帯を濃尾大地震が襲いました(避難先の建物の倒壊で父親が死去)。被害から逃れるように京都へ移転。郷里の人々からの注文で、掛軸や岐阜提灯の絵を描いて生計をたてました。この縁は、玉堂にとって生涯忘れることのできないものとなったのです。

結婚、母親の死、師匠の幸野楳嶺の死を経て、第四回内国勧業博覧会に「鵜飼」を出品して、入賞を果たします。その博覧会に出品されていた橋本雅邦(はしもとがほう)の「龍虎図」に玉堂は深く感銘を受けます。橋本雅邦の門下生になるために上京しました。画家としての修業のために各地を渡り歩きながら、博覧会や共進会へ出品して受賞を重ねていきます。

関東大震災や太平洋戦争に翻弄されながらも絵を描き続けました

東京へ活動の場を移してから、玉堂の名声は徐々に上がっていきます。「行く春」(国指定重要文化財)、「炊煙」(イタリア万国博覧会に出品して、ヨーロッパへ活躍の場を広げていきました)など、多くの作品を描いています。岐阜県や長野県、福井県などにスケッチ旅行へ出かけて、自然の現象や状態を表す風景画を残しています。作画活動に専念できる別荘「二松庵」を建設し、芸術を論じ合う「山水会」が誕生したことにも注目できます。宮内省からのご用命により多くの絵も描いています。また、あまりに多くの人が訪ねて来るために、玄関先に「午前不在」の札を立てたそうです。絵を描くことへの真剣さがうかがえます。

横山大観、下村観山などとの交流に支えられながら、画業に専念。そして、太平洋戦争勃発を境に奥多摩へ活動拠点を移します。

日本画の改革の礎を築いた生涯

東京大空襲で自宅を焼失したため、終戦後、奥多摩(現在の東京都青梅市御岳)へ疎開して画業生活に入りました。創作熱は衰えることなく、風景の中の人物に興味が移り、情景画を描きました。人物の息遣いが加わったとこで、柔らかい絵になったと思われます。趣味で楽しんでいた俳句や和歌においてもその才能を発揮して、詩歌集や俳歌集を刊行しました。美術展への出品を続けてきましたが、1957年に永眠。絶筆は「出船」となり、洋画に対抗した力強い日本画に仕上がっています。

日本画の改革の礎を築いた玉堂。ひとつひとつの絵から、人間と自然が近かった時代を感じられます。玉堂は生きた証言者だったとも言えます。日本の原風景が減っていく最中、故郷を敬う心を失ってはいけません、と玉堂は絵で訴えています。(text in 2014.3.20)

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでます